国民統合の象徴たる天皇を安直に利用していいのか 東大教授・山内昌之
2009-12-17




山内教授はともかく、靖国担ぐ産経さんだってあまり偉そうなことは言えないはず。
「玉(ぎょく)」については拙著「隠された皇室人脈」も参考にしてください。


<関連記事引用>

【幕末から学ぶ現在(いま)】(41)東大教授・山内昌之 玉松操
2009.12.17 08:05
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「玉」と「旗」の高い代償

 中国政府の希望をいれて、内政のルールを曲げながら、習近平副主席に天皇陛下との会見の機会を与えた鳩山由紀夫首相と平野博文官房長官の姿勢に、各界から疑問や批判が寄せられている。

 首相官邸は、民主党の小沢一郎幹事長も強調する賓客の重要性に気をとられたせいか、ルールを破った対応が民主主義国家と象徴天皇制の原理にかかわる微妙な問題に波及することを洞察できなかったようだ。

 詳しくは本紙1面コラム「歴史の交差点」(12月15日付)でも触れておいたが、官邸の歴史感覚と政治センスの鈍感さには驚くほかない。国民と全政党の良識がほぼ一致して今回の官邸による措置に疑問を呈する理由は、国民統合の象徴たる天皇を政治の判断によって安直に利用したと解釈されても仕方のない点にある。

 ◆大胆な天皇政治利用

 ここで「玉(ぎょく)」という言葉を思いだした人もいるに違いない。幕末に長州藩の過激派志士たちは尊皇を語りながら、いかに天皇を政治の切り札として自らに有利な具合に使うかを考えていた。そこには天皇に対する真の尊敬心を疑わせるような雰囲気さえあった。

 木戸孝允や大久保利通ら政治工作に巧みだった薩長の人間は、幼少の明治天皇を隠語で「玉」と称して、ひそかに抱え込み、「玉」の威力で官軍を名乗ることに成功したのであった。

 これは最も大胆な天皇の政治利用にほかならない。この時に、錦旗を考案して討幕軍を鼓舞したのが玉松操である。

 東海道や東山道を下る軍の先頭を飾った日月章の錦の御旗と菊花の紅白旗は、そのまま古代から公の旗として格別に使われていたわけでない。下級公家出身の玉松の工夫したデザインは、あたかも朝廷に長く伝えられた由緒ある制式の旗でもあるかのように各地の人びとを心服させる魔法の役割を演じた。

 しかし、岩倉具視という稀代(きたい)の陰謀家の腹心として、倒幕のために天皇を「玉」とし、その手段たる錦旗を考えついた薩長のマキャヴェリアンたちに加担したつけは大きかった。

 ◆新政府の立場と対立

 玉松操は、大国隆正に師事した国学者であったが、幕末維新期の岩倉具視と常に行動をともにし、彼の活動を文才や学識で助けた。

 ことに小御所会議で示された王政復古の勅を起草したとき、彼の書いた格調高い文章は公卿(くぎょう)や大名たちを驚かせている。王政復古の大業にあたって、官職や制度を建武新政でなく、神武創業に基づくことを岩倉に勧めたのも玉松であった。しかし、維新後に大学寮(漢学所)を国学中心の大学官(皇学所)に統合することを求めるなど、「尊内卑外政策」を信奉する保守感覚は、文明開化を国是とする新政府の立場と相いれず、岩倉とも対立するようになった。

 東京では大学中博士兼侍読という「皇国学」を指導する役どころを与えられた。しかし、政府の欧化政策は彼の国学的世界観と合うはずもなく、辞職して京都に帰り、失意の中まもなく病没した。

 明治維新当初の復古精神の一翼を担った玉松としては、新政府の開国主義や洋学採用の方針には憤懣(ふんまん)やるかたない気分であったろう。しかし、鬱勃(うつぼつ)たる心で世を去った彼は、幕末薩長の倒幕リーダーたちが天皇を「玉」と呼ぶなどプラグマチックな活動家だったことを知っていたはずだ。


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