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自由への逃走 PART2 杉原ビザの謎(16) 情報の見返り、発給決断?
1995/04/17中日新聞朝刊
ポーランド諜報機関通じ独ソの動向探る
杉原千畝(ちうね)が、ドイツのケーニヒスベルク総領事館からルーマニアのブカレスト公使館に転勤となる四カ月ほど前の、一九四一年八月。ある極秘報告書がドイツの国家保安本部で作成された。タイトルは「帝国における日本人スパイについて」。その冒頭に挙げられた“スパイ”の名はスギハラだった。
「三九年当時、カウナスに駐在していた杉原は、ポーランドと英国に好意的で(中略)カウナス時代から知り合いで、彼から日本国籍を手に入れたペシュというポーランド人は、ケーニヒスベルクでの杉原の秘密情報機関に属している」
そして、単刀直入に「杉原が引き続き(ケーニヒスベルクで)職務を続けることは、日独関係を危険に陥れる。(中略)州長官は、杉原の解任を外務省を通じて手配する考えである」。杉原の異動は、ドイツからの圧力のため――とのうわさは本当だったようだ。
報告書にあるペシュことダシュケビッチ陸軍中尉。独ソに母なる大地を踏みつぶされ、ロンドンに亡命政府を構えたポーランド共和国が、ドイツ支配地域に放ったスパイである。
ペシュや杉原が戦後になって書いた未公開の手記が、ワルシャワ大学日本語学科のエバ・ルトコフスカ助教授の手元にある。助教授の共同研究者アンジェイ・ロメルが手に入れたものだ。来月発行されるポーランド研究誌「ポロニカ」第五号に、その一部が載る。
手記の中で、杉原はカウナス領事館開設が陸軍参謀本部主導で決まったという事実を指摘し、こう書く。「国境地帯でのドイツ軍の集結状況(中略)について、参謀本部および外務省に情報を送ることが私の任務であることを理解した」
ドイツがソ連をけん制すれば、日本の極東戦略は大きく変わる。参謀本部は、独ソ双方の情報を入手するため、以前からポーランド亡命政府の情報機関と協力関係を保っていた。たとえポーランドが盟邦ドイツの敵であっても、背に腹は代えられぬ、というわけだ。
妻幸子が今も「子供好きな人」と振り返るペシュらと、杉原は領事館などで頻繁に接触し、情報提供を受けた。無論、ペシュらにも見返りがあった。
杉原は、ナチスドイツの魔手から彼らを守るため、領事館書記生などと偽って日本や満州国のパスポートを手渡した。彼らがロンドンの亡命政府に報告書を送るには、日本の外交ルートが使えるようにした。
さらにもう一つ、彼らが杉原に求めたことがある。ペシュは書いている。「私は杉原から(ポーランド難民のための)日本経由の通過ビザ発給の決定をもらうことになっていた」。そして、杉原はビザを出し始めた。四〇年夏のことだ。
杉原が難民にビザを発給した最初の動機は、自らの諜報(ちょうほう)任務のためだったのか。
それにしても、ポーランドの情報機関は、何の目的で難民への通過ビザ発給を求めたのだろう。ルトコフスカ助教授の見方はこうだ。「ポーランド人の難民を北米大陸などに逃がし、亡命者で結成されたポーランド軍に加わらせようとしたのでしょう」
殺到し始めた難民。ペン書きでビザを出し続けたため、杉原は手が痛くてしようがなかった。
「日本語でビザを書くのは面倒で、発給手続きの大きな障害になっているのです」。杉原の相談にペシュは答えた。「ゴム印を作って、一部だけを手で書くようにしたらどうです。何なら私が作ってきますよ」
杉原からひな型を受け取ったペシュは、諜報員仲間のヤクビヤニェッツ大尉に渡した。「彼は印を注文したが、その際、二つ作るように指示し、一つはビルナ(現在のリトアニアの首都ビリニュス)へ渡された。ビルナでも後に日本の通過ビザ発給が行われた」
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