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歴史を学ばぬ小沢アテルイ。
初戦は善戦、結果は完敗。これぞ東北の負け戦パターン。
まつろわぬ民の宿命なのか。
小沢アテルイはコンプレックスの塊のようにも見える。
それでも安彦アテルイのお顔のようであったなら、小沢アテルイを応援したかもしれない。
小沢アテルイには次に押し寄せる大軍の姿も見えていることだろう。
<関連記事引用>
【流域紀行 北上川をあるく】(4)アテルイの血?反逆の傑物たち
2007/10/26産経新聞東京朝刊
蝦夷。エゾ、古名でいうとエミシ。このエミシとはどんな人たちだったのか。必ずしもアイヌと同一ではなく、日本の古代史で東北地方に生きた土着の人びとをいう。政治的、文化的に中央(朝廷)に従わない人=まつろわぬ民を指した呼び名だった。
北上川の名は、そのエミシが住む土地という意味の日高見(ヒタカミ)川からきたという。
ところでアテルイという男の名を聞いたことがおありだろうか。まつろわぬエミシの指導者で、北上川のほとりの胆江、いまの水沢(現奥州市水沢区)が生んだ梟雄(きょうゆう)である。8世紀末、桓武天皇のころ北上川を舞台に政府軍を破って中央を悩ませた。
時代が下ってこの水沢は、わずか1万6000石の小藩でありながら数多くの傑出した人物を輩出した。幕末の蘭学者・高野長英、明治・大正の政治家・後藤新平、昭和の宰相・斎藤実(まこと)ら。町には「偉人通り」と呼ばれる一画もある。いまをときめく民主党代表の小沢一郎氏も水沢出身だ。
かれらに共通するのは時流に反逆する性向といってもいい。この“時代の子”らの出現は、1200年前の梟雄アテルイの血と、はたして無縁だろうか。
◇
■敗者の暮らした土地
「賊徒の頭目から民族の英雄へ、アテルイの評価が百八十度転換したのはこの地元でもここ10年ぐらいのことです。いまではすっかり地域おこしの象徴的人物ですが…」
水沢の胆江日日新聞の編集長・安彦公一さん(52)は、そういってくすぐったそうな顔をした。胆江日日は発行部数2万5000。地元紙の雄である。
子供のころ、教科書でアテルイは良民を苦しめる悪路王として教えられてきた。いかにも憎々しい木像の首もある。それが中央へのいわれなきコンプレックスにもなってきた、と水沢人は口々にいう。歴史の闇に封印された人物だったのだ。
ところで安彦さんは身長186センチ、容貌(ようぼう)必ずしも怪異ではないが、とにかく堂々の偉丈夫である。アテルイとはこんな男ではなかったのかとひそかに想像した。と、こちらの腹の底を見透かしたように、「実は10年ほど前、NHKテレビ『ライバル日本史』で、アテルイ役で出演させられたんです。記者仲間に“お前、やれ”とむりやり」
そういってくれれば、話が通じやすい。
延暦8(789)年6月、征東将軍の紀古佐美(きの・こさみ)は兵5万余を率いてエミシ征討のため水沢に攻め入った。
「ここです、その古戦場は」
安彦アテルイ氏は、ゆるく曲がる北上川を眼下にした河岸段丘に案内してくれた。「政府軍は北上川ぞいに北上して渡河しようとした。それをエミシ軍800が羽黒山で待ち伏せし、挟み撃ちにしたのです。政府軍は川に追い落とされて大敗し、1000人以上が溺死(できし)したといいます」
一説では川の上流をせきとめてダムをつくり、そのダムを決壊させてテッポウ水にして流したとか。この村の名をとって「巣伏(すぶせ)の戦い」と呼ばれている。坂上田村麻呂が征夷大将軍となって10万の大軍が再襲したのが延暦13(794)年。アテルイは降伏し、のちいまの大阪府枚方市で斬(き)られた。
岩手の作家・高橋克彦さんは近著『楽園にようこそ』(NHK出版)でこう書いている。
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